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作者紹介
氏名 池野 昌弘(いけの まさひろ)
生年月日 1964/07/22
出生地 大阪生まれの大阪育ち
現住所 大阪府池田市
職業 大阪府立某高校定時制体育教師

学歴
1977年3月 大阪市立平野西小学校卒業
1980年3月 大阪市立平野中学校卒業
1983年3月 大阪府立天王寺高等学校卒業
1987年3月 大阪教育大学 教育学部 小学校課程保健体育専攻科卒業
1990年3月 大阪教育大学大学院 修士課程 教育学研究科 保健体育専攻 バイオメカニクス研究室修了

資格等
教員免許 小学校保健体育専修、中学校保健体育専修、高等学校保健体育専修、幼稚園2種
その他免許 普通自動車、自動二輪(中型)
資格 英語検定2級、柔道二段、剣道初段、SAJスキー1級

競技歴
中学校 陸上部  背が小さくやせっぽっちの私は足が速くなりたくて陸上部に入部しました。1年生の時は顧問の先生がいて人数も多いクラブでしたが、2年生になると顧問が転勤して同好会になり、私らの卒業と同時に廃部になりました。
 私は人より3年成長が遅かったので、声変わりも中学3年になってからでした。入学時身長140cmしかなく筋力もない私は、専門的な指導を受けることもなく、全然足は速くなりませんでした。中学生の中に一人だけ小学生がいるようなもんです。当時スパイクを履いて測定したり、試合に出ることもほとんどなく、100mはグランドで運動靴で走って18秒ぐらいかかっていました。クラスでも下のほうでした。ただ、長距離は根性で走っていたので、クラスで1位、クラブの駅伝代表にもなりました。
高校 1年生 山岳スキー部
2年生夏まで サイクリング同好会
2年生9月〜3年生9月 機械体操部
 高校入学時、友達もたくさんいたので山岳スキー部に入りました。夏は山登り、冬は冬山とスキーというクラブです。夏休みは北岳(日本第2位の高さの山)に一週間登ったりしましたが、スキーはほとんどせずに終わり、春休みに先輩とのトラブルで友達みんなで辞めてしまいました。
 2年時はその友達らとサイクリング同好会を創り、夏休みに能登半島一周などしましたが、クラブに燃えたくなり、器械体操部に入部しました。
 そこから1年間は勉強もそっちのけでひたすらクラブにがんばりました。進学校だったので通常は3年生の春に引退するのですが、夏休みを越え9月の試合までがんばりました。その甲斐あって、大阪高校2部大会で団体2位に入賞しました。
大学 ラグビー部  体育の教師になりたかった私は、器械体操で試験を受けて体育学科に入学しました。スキー部にも入りたかったのですが、ラグビーへの憧れがあり、体育会ラグビー部に入部しました。3回生からはスクラムハーフのレギュラーとして試合に出場しましたが、4回生の11月に試合中に左足を骨折して3ヶ月入院しそのまま引退となりました。
大学院 クラブチーム(ラグビー)  左足中足骨を脱臼、骨折した私は医者から「体育の教師は無理」とまで言われましたが、根性で治しました。コーチ学や運動力学を勉強したくて大学院に進み、吹田のさつきクラブというクラブチームでラグビーを続けました。
社会人 ラグビーについて  社会人になってもクラブチ―ムでラグビーを続けました。ポジションはスクラムハーフ、スタンドオフ、ウィング等色々こなしました。採用試験に合格し正教員になってからは、大阪教員団チーム(当時は関西社会人Bリーグ)にも所属して5年間プレーしました。
 32歳までプレーしましたが、陸上競技と競技スキーが忙しくなってきたのと、棒高跳びの踏み切りで左足首靱帯を大怪我したのと、定時制高校に転勤したのをきっかけに、一旦ラグビーを中断しました。(あくまで中断のつもりですが以降全くしていません。)
社会人 陸上について  陸上は、中学時代全く足が速くならず、高校時代も遅かったです。50m走7秒5ぐらい。1500m走は5分ジャストぐらいで走っていました。大学時代は1年の授業でスパイクを履いて土のグランドで100m12秒8ぐらいでした。ラグビー部で散々走らされたので少しずつ速くなってきたのか、社会人になるとチームでも速い方になってきました。50m走6秒5ぐらい。
 一度競技場でスパイクを履いて記録を測ってみたくなり、27歳の時、父にスパイクとユニフォームを借りて記録会に出ました。手動で風速計測もなしでしたが、100m11秒7でした。以後ラグビーのトレーニングの一環として1年に一度100mに出場していました。
 そして、母から誘われ30歳になったのを機にマスターズに参加するようになりました。最初100mだけ測定できればそれで良かったのですが、和気あいあいとした雰囲気の中、200mや400mにも出てみたりしました。初めて走った400mが56秒3。生まれて初めて練習もしないで走った割には結構良かったので調子に乗って400mにもでるようになりました。
 32歳の時には何を思ったのか、十種競技にも出場しました(漫画デカスロンの影響かな)。初めてするハードルや棒高跳びに戸惑いながら、楽しく競技できました。33歳、34歳の時には怪我で出られませんでしたが、35歳に復帰し、以後毎年出場しています。
社会人 スキーについて  スキーは、小さいころからやっていました。毎年正月と春休みは家族でスキーに行っていました。初めてリフトに乗ったのは小学校3年生でした。でもゲレンデで楽しく滑るスキーで、競技をしたりスクールに入ったりというのはありませんでした。高校、大学時代も友達と楽しくスキーに出かけていました。大学1年で2級(八方)、大学院で1級(赤倉)も取りましたが、クラブにも所属していない状態では指導員や競技の道も難しく、また貧乏でお金もなかったので(スキーってお金かかりますよね)、以後モチベーションをなくし、年に一度ただで参加できるのでコーチとして学校のスキー講習会に行く程度でした。
 教員採用試験に合格し、28歳で新任として赴任した学校に、今のスキークラブの会長をしている先生がいて「競技してみないか」と誘われました。「行きます」と二つ返事で答えて飛び入りでレースに出してもらいました。全く練習もなしで、本格的なコースのレースに出ましたが、転倒もせず無事完走、でもドンベのほうでした。
 そして、30歳の時「大阪ワンワーパススキークラブ」に正式に入会し、競技スキー人生が始まりました。当初ちょっと練習して慣れればすぐに上手になると思っていましたが、なかなか成績は上がらず低迷していました。35歳になって部別が成年男子Cになるころには、新しく出てきたカービングスキーのテクニックも習得し、徐々に成績も上がってきました。そして、40歳になって挑んだ平成17年度の大阪府の国体予選で初優勝して、岩手「りんどう」国体に出場したのでした。

競技成績
中学校 なし
高校 器械体操 '82年大阪高校総体2部団体 第2位
大学 '85年関西大学ラグビーBリーグ 5位
'86全国地区対抗選手権大会 出場
'86近畿国立大学選手権大会 優勝